美しくない「だめだよ」
——優しさと理性を取り戻す、言葉との向き合い方
「それではまずい」とわかることなしに、
人は、なにかを成し遂げることはできない。
私たちの日常は、「まずいこと」だらけです。
自分のことも、誰かのことも。
だからこそ、「だめだよ」と言えることは、
生きていくうえでとても大切な力です。
けれどその言い方が——
まるで猛獣に噛まれるようだったら?
毒蛇に刺されるような痛みだったら?
人はその「だめだよ」から、
逃げることしか考えられなくなってしまいます。
ピアノの前で気づいた、自分に対する“荒っぽさ”
久しぶりにピアノに向かったときのこと。
思うように指が動かず、思わず口から出たのは——
「クソッ」
自分で自分に、槍で突き刺すような言葉を投げつけていたのです。
しばらくしてピアノを離れ、磁石をいじってぼんやりしていると、
ふと、こんな問いが浮かびました。
「子どもにきつく言いすぎると、聞かなくなるって、他人には言ってたよね?」
なのに、なぜ自分にはそんなにきつくしていたのだろう。
「だめだよ」ほど、美しくあってほしい
「だめだよ」を伝えるときほど、
芸術的な感性が必要なのかもしれません。
言葉には思いやりの響きが必要で、
美しく、あたたかくあってほしい。
怖さで従わせる「だめだよ」は、確かによく効きます。
でもその裏で、信頼を壊し、可能性を摘んでしまうことがある。
それは、道をふさぐヤギを砲撃で吹き飛ばすようなもの。
ヤギは死に、道には大穴があく。
本当は「ヤギさん、ちょっとどいてね」とトントンすればよかっただけなのに。
脳は、やさしい学びの中でこそ成長する
もう一度ピアノに向かい、
こんどは自分に**やわらかい「だめだよ」**を言ってみました。
「今のは、ちょっとまずかったね」
「もう一度、ゆっくりやってみよう」
完璧ではなかったけれど、
さっきよりも、少しだけ指が動くようになりました。
ある脳科学者がこんなことを言っていました。
人がなにかを習得するときには、
成功と失敗の両方が必要である。練習のあと、しばらく休むことで、
脳がその体験を統合してくれる。
つまり、うまくいかなかったことを罰する必要はないんです。
「あ、いまのはまずかったな」
そう静かに受け止めるだけでいい。
あとは、脳がちゃんと学んでくれるから。
「やさしい理性」は、あなたを自由にしてくれる
強い言葉で自分を責めなくてもいい。
他人を傷つけなくても、伝える方法はある。
美しい「だめだよ」は、
あなたの心の奥にある理性と優しさの共同作業。
それを育てていけたなら、
もっと自由に、もっとしなやかに、
人生という楽譜を奏でられるようになるのかもしれません。