“誰かの目”より“自分の感覚”を信じて選ぶ夏
“誰かの目”より“自分の感覚”を信じて選ぶ夏
「それ、モンペみたいでカッコ悪いよ」
そう言われて、ちょっとだけ心が揺れた。
でも、わたしの身体はちゃんと知ってる。
この服を着たときの、風の通り方、肌へのやさしさ、そして心地よさを。
自分にやさしい服は、誰かにウケる服じゃないかもしれない
「うさとの服」を初めてまとったとき、
ふわりと風が通り抜ける感覚に、思わず深呼吸したくなった。
リネンや綿、手織りのぬくもり。
体にまとわりつかず、自然の一部になったような感覚。
でも、それを着て外を歩くと——
「え?なんか、農作業の人みたい」と笑う人もいる。
とくに母世代は、「人前に出る格好じゃない」と言う。
でも、それは誰かの“正しさ”の中での話。
何を着るかは、「自分をどう扱いたいか」の表れ
わたしはもう、
「誰かの目」や「常識」のために、自分の身体を窮屈にしたくない。
ヒールで無理に背伸びしなくてもいい。
ウエストを締めつけすぎて、お腹をこわす必要もない。
「楽な服を着るなんて、だらしない」なんて、もう思わなくていい。
どんな服が“ふさわしい”かではなく、どんな服が“自分にやさしい”か。
それが、わたしの新しい服選びの基準。
他人の身体も、自分の身体も「ジャッジしない」
街を歩く誰かの体型を笑う人がいる。
鏡の中の自分を見て、落ち込んでしまう日もある。
でも、それはすべて**「正しさ」や「美しさ」への呪縛**。
「こうあるべき」という基準に自分を合わせるより、
「こうありたい」自分の感覚を信じるほうがずっと自由。
服は本来、自分を守るものであり、楽しむものであり、解放するもの。
ムササビパンツは、わたしの“解放宣言”
風がすっと通り抜けるムササビパンツ。
足元を広げると、まるで翼を広げるような形になる。
それはまるで、身体が「好きなように生きていいよ」って言ってくれているような感覚。
見た目がどうか、カッコいいかなんて、もうどうでもいい。
だってこの服は、わたしの身体と、心と、魂を喜ばせてくれるのだから。
まとめ|自分に「いいね」と言える服を
服選びは、自己表現のひとつ。
でも同時に、“自分への扱い方”を映し出す鏡でもあります。
誰かの声に惑わされず、
自分の心と身体に聞いてみる。
「いまのわたしに、この服は心地いい?」
「この服を着ているわたし、好きだと思える?」
その答えがYESなら、
たとえそれが“モンペみたい”でも、
それは最高にカッコいい服なのです。
自分が
何を身につけるかについて
他人や社会の
押し付けには屈しない
他者の身体を
判じること
自分自身の身体を
判じることもやめる